人物

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ビール

ビールを変えた冷凍技術

19世紀後半、ドイツの技術者カール・フォン・リンデによって、画期的な冷凍機が発明されました。それまでの氷を作る技術は、冬の寒い時期に自然にできた氷を貯蔵しておき、必要な時に使うという方法が主流でした。しかし、この方法は天候に左右されるため、安定した氷の供給は難しく、特に夏場は深刻な不足に陥っていました。リンデが発明した冷凍機は、1日に6トンもの氷を人工的に作り出すことができました。これは、当時の人々にとって驚異的な量であり、まさに革命的な発明でした。この画期的な冷凍技術の誕生は、様々な産業に大きな影響を与えましたが、特にビール造りの世界に劇的な変化をもたらしました。それまでのビール造りは、気温が低い冬にしか行えないものでした。それは、ビール造りに欠かせない酵母が、高い温度ではうまく働かず、質の良いビールを安定して造ることが難しかったからです。夏場に造られたビールは、味が変わりやすく、腐敗してしまうことも少なくありませんでした。そのため、人々は冬の間に造られたビールを大切に保管し、夏の間は少量ずつ大切に飲むのが一般的でした。リンデの冷凍機が登場したことで、醸造所では一年を通して温度管理が可能になりました。酵母にとって最適な低い温度を一年中保てるようになったことで、季節に関係なく、いつでも質の良いビールを安定して造ることができるようになったのです。これはビール造りの歴史における大きな転換期であり、ビールの味と品質を飛躍的に向上させただけでなく、ビールをいつでも楽しめるようになったことで、人々の生活にも大きな変化をもたらしました。リンデの冷凍機は、まさに氷と冷たさの世界に革命を起こし、現代社会の礎を築いた偉大な発明と言えるでしょう。
ウィスキー

バーボンウイスキーの父、エライジャ・クレイグ

1700年代後半、アメリカ合衆国建国間もない頃、ケンタッキー州でバプテスト派の牧師として人々に教えを説いていたのが、エライジャ・クレイグという人物です。彼は、信仰に篤いだけでなく、新しいことを始める才にも長けていました。紙作りや、縄作り、穀物を粉にする仕事など、様々な事業に携わっていました。中でも、後世に語り継がれることになるのが、お酒造りにおける功績です。当時のケンタッキーでは、トウモロコシを原料としたお酒が広く作られていました。人々は、収穫したトウモロコシを原料に、素朴なお酒を造り、日々の暮らしの中で楽しんでいました。クレイグもまた、お酒造りに興味を持ち、自ら蒸留所を設立しました。そして、従来のお酒造りの方法に、独自の工夫を加えていったのです。具体的には、どのような革新だったのか、詳細は定かではありません。ただ、「チャーリング」と呼ばれる技法を編み出した、もしくは完成させた人物として有力視されています。チャーリングとは、お酒を熟成させる樽の内側を焼き焦がす技法です。当時のお酒は、樽の中で熟成させる際に、雑味やえぐみが混ざってしまうことがありました。クレイグは、樽の内側を焼くことで、お酒の色や香りを良くし、雑味を取り除く効果があることを発見したのです。こうして生まれたのが、バーボンウイスキーと呼ばれる、アメリカを代表するお酒の原型です。クレイグがケンタッキーにもたらした革新は、その後のウイスキー造りに大きな影響を与え、現在もなお、世界中で愛されるお酒の礎となりました。クレイグ自身は、自分が造ったお酒が、後世にこれほど大きな影響を与えるとは想像もしていなかったことでしょう。牧師であり、起業家でもあったクレイグの、飽くなき探究心と挑戦が、世界中の人々を魅了するお酒を生み出したのです。
ビール

ビール酵母の父、ハンセン

エミール・クリスチャン・ハンセンは、西暦1842年に北欧の国デンマークで生まれました。幼い頃から、身の回りの自然、特に草花や生き物に強い興味を示し、自然の中で観察に夢中になる少年でした。鳥のさえずり、風のそよぎ、木々の葉ずれ、あらゆる自然現象が彼を魅了し、その探究心は尽きることを知りませんでした。成長するにつれて、ハンセンの自然への興味は学問へと発展していきます。なかでも特に植物の世界に惹かれ、植物学を専門とする研究者の道を歩み始めました。持ち前の探究心と、注意深く物事の本質を見抜く緻密な観察眼を活かし、植物がどのように生きているのか、また、植物の持つ不思議な力について深く研究しました。朝から晩まで顕微鏡を覗き込み、植物の細胞を観察したり、植物の成長を記録したりと、研究に没頭する日々を送りました。ハンセンの興味は植物だけでなく、目に見えないほど小さな生き物である微生物の世界にも向けられていました。微生物は肉眼では見えないため、顕微鏡を使って観察するしかありません。ハンセンは顕微鏡を使って、水や土、空気などに存在する微生物を夢中で観察し、その形や大きさ、動きなどを詳しく記録しました。後にビール造りに欠かせない酵母の研究で世界的に有名になるハンセンですが、実はその基礎となる微生物への探求心は、この頃からすでに芽生えていたのです。まるで、将来の偉大な発見へと繋がる伏線が、この時期に静かに張られていたかのようです。
ビール

コープランドと日本のビール

ウィリアム・コープランドは、西暦1834年に遠い北欧の国、ノルウェーに生まれました。生まれ育った国を離れ、貿易商として世界各地を巡り、様々な文化や風習に触れながら商売の才覚を磨いていきました。そして、幾多の航海の末、明治時代初期という日本の夜明けの時代に、ついに彼は横浜の地に降り立ちました。初めて目にする日本の景色は、コープランドの心に深く刻まれました。特に、横浜の美しい街並みと、天沼からこんこんと湧き出る清らかな水は、彼に強い印象を与えました。そして、この素晴らしい水こそが、自らの夢を実現するための鍵となることを確信したのです。それは、日本でビールを造るという壮大な夢でした。しかし、当時の日本ではビール造りはまだ一般的ではなく、醸造に必要な設備はもちろん、ビールの原料となるホップさえも手に入れることは容易ではありませんでした。あらゆるものを輸入に頼らざるを得ない状況でしたが、海を渡って遠くの国から物資を運ぶ手段は限られており、輸送にかかる時間や費用は莫大なものでした。まさに、前途多難、困難の連続と言える状況でした。それでもコープランドは諦めませんでした。持ち前の粘り強さと、長年培ってきた商売の知識と経験を活かし、あらゆる手を尽くしました。必要な設備や原料の調達、輸送ルートの確保、そして醸造技術の習得など、課題は山積みでしたが、彼は一つひとつ丁寧に、そして着実に問題を解決していきました。彼の情熱と努力は、やがて実を結び、日本の地で初めての本格的なビール造りが始まることになるのです。
ウィスキー

小さな巨人、ジャック・ダニエルの物語

ジャスパー・ニュートン・ダニエル、のちに世界に名を轟かせるジャック・ダニエルは、数々の苦難を経験しながらも、力強く人生を切り開いていった人物として語り継がれています。驚くべきことに、彼はまだ13歳という若さで蒸留所を手に入れ、お酒造りの道を歩み始めました。現代では到底考えられないことですが、19世紀半ばのアメリカでは、このようなことも可能だったのです。まだあどけなさの残る少年が、大人の世界に飛び込み、商売の世界で成功を収めたという事実は、彼の類まれな才能と揺るぎない意志の強さを物語っています。裕福な家庭で何不自由なく育ったわけではなかった彼は、持ち前の負けん気と商売の才覚によって、幾多の困難を乗り越えていったのです。幼い頃から苦労を経験したことが、彼をたくましく成長させ、後に「ジャックダニエル」という銘柄を世に送り出す礎となったことは間違いありません。彼は、1836年にテネシー州リンチバーグで生まれました。大家族の中で育ち、正式な教育を受ける機会には恵まれませんでした。しかし、7歳の頃には、近所のルター派の牧師であり、同時に蒸留所も経営していたダン・コールのもとで働き始めます。そこで彼は、お酒造りの技術だけでなく、読み書きや計算といった基礎的な知識も身につけました。コール牧師は、若いジャスパーの働きぶりと商才に感銘を受け、彼に蒸留所の経営を任せるようになっていきます。そして、南北戦争の勃発する少し前、コール牧師は宗教的な理由から蒸留所の経営から手を引くことを決意し、ジャスパーは弱冠13歳にして蒸留所の所有者となったのです。南北戦争という激動の時代を生き抜き、ウイスキー造りに情熱を注ぎ込んだジャック・ダニエル。彼の少年時代の経験、特に蒸留所を手に入れたという出来事は、まさにジャック・ダニエル物語の幕開けであり、彼の伝説の始まりと言えるでしょう。今日まで世界中で愛される「ジャックダニエル」は、波乱に満ちた少年時代を過ごした一人の少年の努力と情熱の結晶なのです。彼の幼少期については、詳しい資料が残っておらず、謎に包まれた部分も多いですが、この蒸留所の買収劇こそが、彼の人生における大きな転換期であったことは疑いようがありません。